2021/08/13 14:57


 備前焼は800年(資料によっては1000年)の歴史があると言われています。SDGs云々と叫ばれる昨今、持続可能な備前焼を考える前に、まずは過去を知ろうと、備前焼作家の延原 勝志さん(延原窯)を筆頭に、作家仲間や、備前焼関係者、備前陶芸センターの研修生などを交え、ときにはNHKの取材を受けながら、備前市伊部周辺で6度にわたる窯跡散策を行いました。(1/28、2/9、2/18、2/24、3/10、4/14 実施) 宝山窯では、スタッフの研修も兼ねて、このような機会への積極的な参加をしています。


 案内役の延原 勝志さん。長年にわたる研究成果を次の世代へ伝えようと声かけをしてくださいました。我々は敬意をもって「隊長」と呼び、メンバーは名誉ある「延原勝志探検隊」の一員となります。この小隊は、一定の目標地点を目掛けてスタートするのですが、陶片(うつわの破片)や窯壁(備前焼を焼成した窯の壁)、灰原(灰や陶片を捨てた場所)を見つけては、「このあたりに窯跡があるはずだ!」と、山道からそれて山の中へ分け入っていきます。これが醍醐味であり、その先で多くの発見をしていくこととなります。

   
 まずは、平安末期のものと推測される陶片が大量に捨てられた灰原。この近くに窯跡があるはずと、周囲を捜索しましたが、発見とはなりませんでした。すぐ隣に整備された林道が走っていることから、「窯跡ごとごっそりやられたな…」という結論に至りました。こういった、なんとも言えない発見もあります。


 鎌倉前期ごろと思われる窯跡。写真ではわかりにくいですが、真ん中のくぼみがそれにあたります。周囲に転がるゴツゴツした岩のようなものが窯壁です。この窯跡は、備前市教育委員会の調査による分布地図などにも記されておらず、もしかするとお初かもしれないというものです。窯跡の環境保全のため、場所をお伝えすることはできませんが、伊部周辺の山中へ分け入れば、至る所でこのような窯跡に遭遇することができます。


 先ほどの窯跡近くにあった灰原。写真の右上付近、黒く見える部分がそれにあたります。広い範囲にわたっており、周辺から見つかる窯壁もドロドロに溶けていることから、かなりの長期に渡って窯が使用されたと推測できます。これほどのものは、他に発見することができなかったため、技術的な革新があったのか、やり手のカリスマがいたのか、想像がふくらみます。


 平安から鎌倉期の窯跡群を巡った回で発見した、捏鉢(こねばち)の陶片。当時のやきものは、今の備前焼のような赤褐色ではなく、灰色をしているのが特徴です。大きな陶片を見つけるとトレジャーハンティング気分でテンションも上がります。アゲアゲ気分で陶片を持ち帰る不謹慎な輩もいるようですが、もちろんこの陶片は元の場所へ戻させていただきました。


 茶わんの底。現在ではワイヤーを使って作品をろくろから切り離しますが、当時はワイヤーなどありません。何で切ったのかを考えてみるのも一興ですが、この切り口から「ろくろ」またはそれに類するものがあったことは分かります。また、指でこすった痕や道具で叩いた痕などが見られる陶片からはどのように成形を行なったのか、当時の技法を知ることもできます。


 粘土、水、燃料と要素が揃い、ひらけた場所と程よい斜面があれば、そこで「やきもの」を制作することができます。そのため、窯跡の周辺を探すと、粘土が出る場所を発見することもあります。もちろん持ち帰ってはダメですが、焼いたらどんな色になるのか気になるところではあります。ここではイノシシの足跡も散見されたので、危険な香りもプンプンです。


 時代が下り、室町期に入ると現在の備前焼に近い赤褐色の色合いになっていきます。これまでは灰色の陶片がほとんどでしたが、この時代の窯跡になると周辺から出る陶片は、ほとんどがこの色合いとなります。焼成技術の変化はもちろんのこと、窯の立地も山中から山の裾野など少し下った場所となり、何らかの社会的な変化が起因していると考えられます。中国や朝鮮との交流や国内の政治的な動きなどとともに考察してみても面白いかと思います。


 ここまでのお話においては、窯跡の環境保全のため場所を紹介することはできませんでしたが、ここからは、誰もが訪問可能な場所を紹介していきます。将来的には、備前焼作家が案内をしながら、いくつかの窯跡を巡るツアーを実施できればと策を練っていますので、まずはブログ内で仮想ツアーを体験していただければと思います。


 鎌倉期の「グイビ谷窯跡」。備前焼の中心地である伊部を流れる不老川をただひたすらに上流へ。鬼ヶ城池を脇目に林道を突き進み、終点から山の中へ。登山道を進むと発見することのできる窯跡なのですが…。ガイドなしで飛び込むには中々の場所ですので、ご希望の方はご一報いただければと思います。ただし、夏場の登山は虫やら、蛇やらが登場しますので、冬場の散策をおすすめします。ちなみに、ここから出てくる陶片は全て灰色。窯跡は2基をはっきりと確認することができます。


 続くスポットは、定番の「伊部南大窯跡」。室町期から江戸期にかけて操業された窯跡で、最も大きな窯は全長が50mを超えます。トンネル状の穴窯(単房式登窯)が巨大化し、部屋が連なった登窯(連房式登窯)が登場するまでの変遷を一度に辿ることができる貴重な場所です。窯跡ごとに物原(陶片や窯道具を廃棄した場所)に見られる遺物が異なり、その時々の社会情勢や備前焼のニーズを知ることもできます。


 ここでは、宝山窯のご先祖様が作った作品の陶片に出会うこともできます。今年の散策では、最も大きな窯跡である「東側窯跡」周辺から多数発見することができました。扇の印がそれにあたりますので、是非探してみてください。ただし、眺めたり、写真を撮ったりした後は、必ず元の場所へ。マナーを守った散策にご協力ください


 お次は、「伊部北大窯跡」。参道や屋根瓦など随所に備前焼が散りばめられた「天津神社」の奥へ進むと、ものつくりの神様を祀る「忌部神社」に辿り着きます。その道中や周辺に見られるのが、室町期から江戸期の「伊部北大窯跡」です。この一帯は見所もいっぱいで、宮山を登っていくと伊部のまちを一望できる展望台があり、南へ下った場所には、江戸後期から昭和初期まで操業された「天保窯」もあります。


 最後の紹介は「伊部西大窯跡」。医王山の山麓に位置する室町期から江戸期にかけての窯跡で、伊部南大窯跡伊部北大窯跡」「医王山窯跡」と合わせて国指定史跡の「備前陶器窯跡」となります。これらすべてを1日で制覇したいという方は、車で回ると駐車場所に困り、歩いて回るとかなりハードになりますので、伊部駅1階の「備前観光協会(伊部観光情報センター)」でレンタサイクル(電動アシスト付き)を借りることをおすすめします。


 窯跡の散策は発見がいっぱい。これからの未来に向けて、備前焼を持続可能なものにしていくヒントは、これまで続いてきたということに隠されています。技術的な部分、経済的な部分などを総合的に考察しながら、現在の状況に当てはめていくことができれば自ずと道は拓けるように感じます。…といった具合に難しい話もいいですが、シンプルに自然に囲まれた山の中を、仲間と共にあーだこーだ言いながら歩くのも良い気分転換になって楽しいものです。次回は何処の窯跡へ?探検隊は突き進みます!



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